
音楽家 林 佳 樹 様
7月も残すところ、2日となりました。
いかが、お過ごしでしょうか。
また言葉をつづらせていただきます。
先月21日、あなたの問いに対し、私は次のように答えました。
「(前略) 一度、全てを失ってください。私はその期間にも、あなたのもとを、離れません。」と。
28年前のあの時、私はまだ答えることができずにいました。
しかし、今は、ちがいます。
- はい。
I will stay with you. 嵐が過ぎても。
いばらの道と批判されても、
I will stay with you. -
私の後方にもそのような道があります。
そして、たくさんを失いました。
けれど、私の心の宝を、奪うことはできませんでした。誰も。
そして今、あなたとの恋も。
先日、伺いました。
メモリアルコンサートのことを。
そして、果さなければならない責任に感じていらっしゃいますことを。
私は理解することができません。
訃報を受け止めなければならない皆に対する、「明るく楽しく見送っていただきたい」というその人の言葉を。
そして、あなたがご遺族より預かりました「メモリアルコンサートを YOSHIKI さんにやっていただきたい」とのその遺言が、引っかかっています。
生前、ライブがやりたいと言っていましたその人は、あなたが頷いて同感でいらしたことや複雑な諸事情によりライブの実現がなかなか難しいということを知っていました。
そのなかで、病により突然の最期を迎えたわけですが、予期できなかった急逝にも拘わらず「明るく楽しく」という言葉を遺すことは、悲しみ顧みるという事がらを周囲から取りあげることにさえ聞こえます。
他方で、諸事情により実現しなかったことについて、死という変えることのできない重い最終的事情をもって相手に要望することは、相手に選択の余地を残さない方法だと思います。
このような形で願いを受けた国民は、それを叶えてあげたいと望んでいましても、例えば何かの事故により実現することができなくなりました場合に、つまり非がありませんのに、その先ずっと、自らを責め続けてしまいます。
これは、間違っています。
このため、どうか、メモリアルコンサート実施という務めをご自分に課さないでください。
歴史の一例を挙げます。
インドには非常に残忍な宗教儀礼があります。それは、配偶者(夫)に先立たれた妻を一緒に送るとして、その未亡人を一種の焼身刑に処するものであり、地域によっては今なお続けていると聞きます。
本当に、死という悲劇を利用することは非常に邪なことであり、宗教組織やカルト組織の常であります。
余白は、個々に残されるべきであります。
そして、決断は、墨と重なります。
実に、余白が十分にありましてこそ、墨絵は生きてきます。
たから
よこしま